斎宮とは?

斎宮付近を上空から撮影した写真

 竹の都 斎宮(さいくう)。それは、天皇に代わり、伊勢神宮の天照大神に仕える斎王の住まう所であった。そこは碁盤の目状に道路が走り、木々が植えられ、伊勢神宮の社殿と同じく清楚な建物が100棟以上も建ち並ぶ整然とした都市で、そこには斎宮寮を運営する官人や斎王に仕える女官、雑用係などあわせて500人以上もの人々が起居し、当時の地方都市としては『遠の朝廷(とおのみかど)』と呼ばれた九州の太宰府に次ぐ規模を持っていたのである。また、斎王を中心とした都市であることから、斎宮では貝合や和歌など都ぶりな遊びが催された。また、都との往来もあり、近隣の国からさまざまな物資が集まるこの地方の文化の拠点でもあったと考えられる。

 In the mythical tradition of Japan, Amaterasu Omikami, lived as a god in the Ise Shrine, in place of the emperor. Saio served the god and she lived in Saiku. Saiku was prosperous from the latter half of the seventh century to about the 13th century. There were many buildings in Saiku. It was a large scale local city where many people lived and worked.

斎宮跡の規模比較図

 斎宮跡の規模は東西およそ2キロメートル、南北およそ700メートル。これを、日本の都であった平城京・平安京や、斎宮が栄えた時代とほぼ同時代の地方都市である大宰府と比べると上図のようになります。平城京や平安京はもちろん日本の『首都』であり『遠の朝廷』と呼ばれた太宰府は、都から遠い九州を統治し、大陸に対する防衛の役目を持つ『小政府』のようなものです。一方、斎宮は伊勢神宮の天照大神に仕える斎王のためだけの都。斎王の在任中のみ構成される斎宮寮には13の司があり、120人以上の役人をはじめ、斎王の世話をする女官、雑用係を会わせて500人を越える人々がいました。これは、当時の諸国を治める国府よりも遙かに大きな規模でした。

碁盤の目状に通りが作られ敷地内に樹木が立ち並んでいる斎宮寮模型の写真

斎宮寮模型(斎宮歴史博物館)

 斎王の代が代わるごとに新しく造営された斎宮は「延喜式」等の記録や発掘の結果によると、碁盤の目状に道路が走り、大垣や溝、植樹が整備された整然とした都市であったことがわかってきました。そしてその内部は、斎王とその世話をする人々が暮らす内院、斎王に関する事務を処理する役所である斎宮寮の庁舎がある中院、官舎や官人の居宅が並ぶ下院に別れ、総数100棟以上の建物が建ち並んでいたと考えられています。

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