斎王紹介その4

歴史の中にさまざまなロマンを紡いだ斎王
悲しくも美しい斎王の物語をご紹介します

斎王の人数、名前の表記、年数等は史料によりさまざまな説があります。
ここでは『斎王物語』(中野イツ著 明和町・明和町教育委員会)の一覧表を元にしています。

斎宮で病に没した斎王

平安時代の斎王 隆子女王(たかこじょおう)

 醍醐天皇の皇子・章明親王の第一王女で、時の天皇・円融天皇のいとこにあたります。

 安和2年(969年)に卜定(ぼくじょう)、天禄元年(970年)に群行が行われましたが、天延2年(974年)、在位わずか4年で疱瘡のために亡くなりました。この時の疱瘡の猛威は89日間におよび、多くの死者が出たことが歴史書にも記されています。斎王が斎宮で亡くなるのは初めてのことでした。

 隆子女王が眠るといわれている陵墓は「伝隆子女王の墓」として明和町にあり、今も隆子女王の面影をしのばせる清楚なたたずまいを見せています。(「伝隆子女王の墓」は、明治時代に設定されました)

『源氏物語』の秋好中宮のモデルとなった斎王

平安時代の斎王 規子内親王(のりこないしんのう)

 村上天皇の第4皇女で、母親は第38代斎王の徽子女王(よしこじょおう)です。斎王としては高齢の27歳で卜定され、36歳で退下しました。

 群行するとき、時の天皇の制止を振り切った徽子女王が同行し、ともに斎宮で過ごしました。斎宮を目の前に母娘で詠みかわした和歌など、後に三十六歌仙のひとりにも選ばれた母・徽子女王の才能を受け継いで、すぐれた和歌を残しています。

 また、源氏物語に登場する六条御息所とその娘で、秋好中宮とも呼ばれた梅壺の女御は、徽子女王と規子内親王をモデルに創作されたと言われています。物語の梅壺の女御は天皇と末永く幸せに暮らしましたが、規子内親王は徽子女王の後を追うように帰京の翌年に亡くなりました。

恋を許されず出家した斎王

平安時代の斎王 当子内親王(まさこないしんのう)

 三条天皇の愛娘。長和元年(1012年)12歳で卜定され、14歳で群行。別れの御櫛の儀式の際、父天皇は、悲しみのあまり、禁忌を破って振り返ってしまいます。まるでこれが前触れであったかのように、16歳で退下する際、その理由は三条天皇の譲位で、譲位そのものは吉事ですが、実際は藤原道長に強要されての譲位、しかも薬害によって失明というものでした。退下後も、藤原道雅との恋を許されず出家し、23歳の若さで亡くなりました。

 道雅は、伊勢物語に描かれた恬子内親王と在原業平との間に生まれていたと噂される子どもの子孫にあたるとも言われ、そのために斎王である當子内親王とは結ばれなかったのではないかという俗説もあります。

神がかりして託宣を下した斎王

平安時代の斎王 嫥子女王(よしこじょおう)

 村上天皇の皇子・具平親王の娘で、後一条天皇の斎宮として12歳で卜定され、32歳で任を解かれるまでの21年間の長きにわたって斎王の位にありました。

 長元4年(1031)、月次祭に出席した嫥子女王は、折からの暴風雨の中でにわかに神がかりし、自分は皇大神宮(内宮)第一の別宮荒祭宮(あらまつりのみや)であると叫び、続いて斎宮寮頭夫妻やその家来たちが悪事をはたらいていることや政治の乱れなどを激しい調子で告発する託宣を下したと記録されています。

 嫥子女王はこの時27歳。真実、神が斎王の身を借りて託宣したのか、長年生まれ育った都を離れていた憂鬱が爆発したのかはさだかではありません。あるいは漢詩文の才に秀でていた具平親王の血を引いた嫥子女王が、狂気を装って不正を告発したのだとも考えられます。

 そののち、後一条天皇の崩御によって帰京し、47歳で藤原教通と結婚。77歳の長寿で亡くなりました。

斎宮に群行した最後の斎王

鎌倉時代の斎王 榿子内親王(やすこないしんのう)

 後嵯峨天皇の皇女で、弘長2年(1262年)、亀山天皇の斎王として14歳で卜定され、16歳で斎宮へと群行しました。

 斎宮にいたころの嫥子内親王の様子は『増鏡(松井本)』に記されており、嫥子内親王が19歳の時、五月雨がやまず、神宮への参向も舟でおこなわれ、その道中に歌をうたったり管弦を奏でて楽しんだことが記されています。
文永9年(1272年)、後嵯峨上皇崩御により、在位11年、24歳で斎王の任を解かれました。

 『増鏡』によると、その後3年も帰京が遅れたほど神の御心にかなった斎王であったと伝えられています。

 帰京後の暮らしは寂しく、西園寺藤原実兼との間に一女が生まれますが、弘安七年(1284年)、36歳で亡くなりました。

 嫥子内親王は斎宮へ群行した最後の斎王となり、その後は、斎王が卜定されても群行は行われず、斎宮は次第にさびれていったといわれています。

動乱の中で退下した最後の斎王

南北朝時代の斎王 祥子内親王(さちこないしんのう)

 後醍醐天皇の第二皇女で、元弘三年(1333年)十二月、懽子内親王(よしこないしんのう)に続く後醍醐天皇の斎王として卜定されました。

 祥子内親王の前任者であった懽子内親王は、後醍醐天皇の倒幕計画が失敗した元弘の乱により、群行することなく元弘元年(1331年)に退下。翌年、後醍醐天皇は隠岐に流されましたが、元弘三年(1333年)に脱出。同年、足利尊氏らによって鎌倉幕府が倒されると、幕府が擁立した光厳天皇を廃し、建武の親政を開始しました。

 祥子内親王が斎王に選ばれたのは、このような動乱の時代でした。

 しかし、動乱はさらに続き、祥子内親王も群行することなく建武元年(1334年)野々宮より退下しました。祥子内親王は年齢も退下後の消息も不明ですが、野宮より百首の歌を大神宮に奉納したこと、保安寺で落飾したらしいことがわずかに伝わっています。
時代は南北朝へと移り、祥子内親王以後は斎王が選ばれることはありませんでした。月日も不明なその退下が、斎王制度の終焉となったのです。

その他斎王

斎王紹介その1

斎王紹介その2

斎王紹介その3

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