飛鳥時代の斎王

伝説と歴史が伝える斎王の数は74名。
このコーナーでは、各斎王の名前、概略、卜定された年、年齢などを一覧表でご紹介します。
それぞれの斎王のデータの向こうに、絡み合う歴史の流れが見えてくるでしょうか…。

飛鳥時代の斎王の詳細
斎王名
(読み方)
概略 天皇名 続柄 卜定年
西暦
(年齢)
退下年
西暦
(年齢)
在任
期間
大来皇女
(おおく)
父: 天武天皇
母: 大田皇女(のちの持統天皇の姉)
天武天皇第1皇女。(年齢的には十市皇女の方が上)
「大伯」とも記される。
壬申の乱の際、天武天皇が伊勢神宮に戦勝祈願し、かなえられたことから、斎王として送られた。これは、実子・草壁皇子を天皇にしようとする皇后の策略とする説もある。
万葉集に6首の歌が残る。
  • わが背子を大和へ遣るとさ夜深けて 暁露にわが立ち濡れし
  • 二人行けど行き過ぎ難き秋山を いかにか君が独り越ゆらむ
  • 神風の伊勢の国にもあらましを いかにか来けむ君もあらなくに
  • 見まく欲り吾がする君もあらなくに いかにか来けむ馬疲るるに
  • うつしみの人にあるわれや明日よりは 二上山を弟世とわが見む
  • 磯の上に生うる馬酔木を手折らめど 見すべき君はありとはいはなくに
天武天皇崩御、大津皇子刑死により退下。(記録では「事故」)
大宝元年(701年)、41歳で薨去。
天武 皇女 天武2年
673年
(14歳)
朱鳥1年
686年
(26歳)
14年
持統天皇の時代斎王の卜定なし            
当耆皇女
(たき)
父: 天武天皇
母: 宍人臣 媛娘(宍人臣大麻呂の娘)
多紀とも託基とも記される
天武天皇皇女で、同母兄姉に忍壁皇子、磯城皇子、泊瀬部皇女がある。
続日本紀に「伊勢斎宮に侍らしむ」と明記される最初の斎王。(大来皇女は「伊勢神宮ニ向デタマフ」「伊勢ノ神祠ニ奉レル」と記されていた)
退下後は、天智天皇第7皇子志貴皇子の妃となり春日王を産む。
天平宝字3年(759年)、およそ80歳で死去。
文武 叔母 文武2年
698年
大宝1年
701 年
約4年
泉内親王
(いずみ)
父: 天智天皇
母: 色夫古娘 (忍海造小竜の娘)
天智天皇の第9皇女。
川嶋皇子、大江皇女の同母妹。年齢は不明。
5年という異例に長い潔斎ののちに伊勢に赴いた斎王。
天平6年(734年)死去
文武 遠縁 大宝1年
701年
慶雲3年
706年
約6年
田形内親王
(たかた)
父: 天武天皇
母: 大 娘(別名大川夫人、蘇我赤兄の女)
田形とも記される。
但馬皇女との恋で知られる穂積皇子を兄に、紀皇女を姉に持つ。
文武天皇崩御により退下。
文武~
元明
おば 慶雲3年
706年
不明 不明
多紀皇女
(たき)
父: 天武天皇
母: 源和子
元明天皇期は、「一代要記」に田方・多紀内親王、智努・円方女王が各一度参入したとみえるが、斎王設置の有無は不詳である。
元明 不明 不明 不明 不明
円方女王
(まどかた)
父: 長屋王
母: 藤原長娥子(不比等の娘)
円方とも記される。
不比等の孫。
元明天皇上位により退下。
退下後15年の天平元年、光明子の立后に反対していた長屋王は謀反と密告され、自殺。この際圓方女王は、藤原氏の血筋であったため、死を免れる。
宝亀5年(774年)、死去。
元明 不明 不明 不明 不明
智努女王
(ちぬ)
父: 長親王(天武天皇皇子)
母: 茨田群王
伊勢参入の記録は「続日本紀」にはない。圓方女王とともに、『一代要記』にのみ、名前が記される。
天武天皇皇子・長皇子の子・智努王の同母の姉妹か。(天武の孫)
『本朝皇胤紹運録』には智努王の系譜に「茅沼女」が記されている。
元明 不明 不明 不明 不明

他の時代の斎王

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