奈良時代の斎王
伝説と歴史が伝える斎王の数は74名。
このコーナーでは、各斎王の名前、概略、卜定された年、年齢などを一覧表でご紹介します。
それぞれの斎王のデータの向こうに、絡み合う歴史の流れが見えてくるでしょうか…。
斎王名 (読み方) |
概略 | 天皇名 | 続柄 | 卜定年 西暦 (年齢) |
退下年 西暦 (年齢) |
在任 期間 |
---|---|---|---|---|---|---|
久勢女王 (くせ) |
父母共に不明。 群行の際、百官が場外まで見送るという記録があり、このような盛大な儀式を行ったからには、それなりに有力な血筋であったと考えられる。 |
元正 | 不明 | 不明 | 不明 | 不明 |
井上内親王 (いのうえ) |
父: 首皇太子(聖武天皇) 母: 県犬養宿禰広刀自 首皇子(聖武天皇)の第1王女、称徳(孝謙)天皇の異母姉。 神亀3年(726年)に56歳の記録からの逆算で養老元年の誕生、卜定時に5歳。5歳という幼さで卜定されたのは、斎王制度強化のためと言うよりも、男児の誕生を見ない首皇太子から皇位継承に近い井上内親王を遠ざけたためと思われる。 弟・安積親王薨去により退下。 退下後、白髪王と結婚、白髪王が光仁天皇として即位したため皇后となるが、展尾呪詛の罪を着せられ、息子・他戸皇子とともに身分を剥奪され幽閉。宝亀6年(775年)に同日死。59歳。毒殺か。 娘の酒人内親王は、第21代の斎王に選ばれた。 死後、都に怪異な現象が続発し、これが井上内親王のたたりであると考えられたため、皇后の位が戻され、何回か改葬が行われた。のちに霊安寺御霊神社に祀られた。 |
元正~ 聖武 |
皇女 | 養老5年 721年 (5歳) |
不明 | 不明 |
県女王 (あがた) |
出自不明。 県とも記される 「二親の喪」により退下。 |
聖武 | 不明 | 不明 | 天平感宝1年 749年 |
不明 |
小宅女王 (おやけ) |
父: 三原王 母: 不明。 舎人親王の孫、天武天皇の曾孫にあたる。 兄弟に和気王、姉妹に弓削女王がある。 『続日本紀』に記録はないが、『一代要記』に名前が残る。 父三原王喪により退下。 |
孝謙 | 遠縁 | 天平勝宝1年 749年 |
不明 | 不明 |
山於女王 (やまのうえ) |
父: 淳仁天皇 母: 不明 「一代要記」には山於(やまお)女王、「斎宮記」等には安陪内親王と記され、大炊王(淳仁天皇)の娘で、山於女王と呼ばれていた人物が大炊王即位によって安陪内親王と呼ばれるようになったと考えられる。 淳仁廃位により退下。 |
淳仁 | 皇女? | 天平宝字2年 758年 |
不明 | 不明 |
孝謙天皇の時代斎王は選ばれず | ||||||
酒人内親王 (さかひと) |
父: 光仁天皇 母: 井上内親王 聖武天皇第1皇女で代第7代斎王・井上内親王を母に、天智天皇の孫・光仁天皇を父に持つ。 卜定された翌年に母と弟が呪詛の罪で幽閉。群行の翌年に死亡。この喪により退下。 酒人内親王の母を、桓武天皇と同じ高野新笠とする書物もある。 退下後桓武天皇の后となり、第23代斎王・朝原内親王を生む。 『日本後紀』逸文には、「容貌秀麗。柔質窈窕」と記される。 天長6年(829年)、76歳で死去。 |
光仁 | 皇女 | 宝亀3年 772年 (19歳) |
不明 | 不明 |
浄庭女王 (きよにわ) |
父: 神王 母: 弥努摩内親王(光仁天皇皇女) 年齢不明。 退下理由記録なし。おそらく、光仁天皇の譲位か崩御によるものと思われる。 |
光仁 | 遠縁 | 不明 | 不明 | 不明 |
朝原内親王 (あさはら) |
父: 桓武天皇 母: 酒人内親王 祖母は第17代斎王・井上内親王、母は第23第斎王・酒人内親王。3代にわたる斎王は斎王史上最初で最後。 延暦3年(784年)には長岡京に遷都が行われた際、朝原内親王は、平城京の野々宮にとどまり、平城京から伊勢へと向かった。 退下理由不明。おそらく、自然解任であると思われる。 弘仁8年(817年)、39歳で死去。 |
垣武 | 皇女 | 延暦1年 782年 (4歳) |
延暦15年 796年 (18歳) |
15年 |