斎王紹介その1

歴史の中にさまざまなロマンを紡いだ斎王
悲しくも美しい斎王の物語をご紹介します

 斎王の人数、名前の表記、年数等は史料によりさまざまな説があります。
ここでは『斎王物語』(中野イツ著 明和町・明和町教育委員会)の一覧表を元にしています。

都から伊勢へと初めて赴いた斎王

花菖蒲に囲まれた倭姫命のイメージイラスト

伝説の時代の斎王 倭姫命(やまとひめのみこと)

 大和の笠縫邑(かさぬいのむら)で天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀っていた初代斎王・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)のあとを継いだ伝承の斎王。大神のお告げのままに、鎮座される地を探して大和・近江・美濃など諸国を何年もかけて旅し、ついに伊勢にたどり着かれたという神話は有名です。また時の天皇に東夷を討つよう命ぜられた倭建命(やまとたけるのみこと)の叔母にあたり、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ。後の草薙剣)や火打ち石を渡したという伝説も残されています。

倭姫命の跡を継いだ心やさしき斎王

蝶が舞うユリの花をバックに座っている五百野皇女のイメージイラスト

伝説の時代の斎王 五百野皇女(いおののひめみこ)

 景行天皇の第7皇女で、中世の伊勢伝承である『倭姫命世記』は別名を久須姫命(くすひめのみこと)としており、日本武尊(やまとたけるのみこと)の姉にあたります。景行天皇(けいこうてんのう)の20年ごろ、伊勢に使わされ、倭姫命の跡を継いで天照大神(あまてらすおおみかみ)に仕えました。この頃、倭姫命はまだ伊勢にあり、五百野皇女は、倭姫命のもとで神に仕える術を学んでいたと思われます。

 斎王の任を退いた時期は不明ですが、美里村五百野には、五百野皇女が都へ帰る途中この地で病を得て亡くなったという伝説があり、「景行天皇皇女久須姫命之古墳」の碑が立てられています。また、浜島町南張(なんばり)には楠御前八柱神社があり、景行天皇皇女・久須姫命を祀っています。ここに伝わる伝説では、久須姫命は大変心やさしい女性であるといい、この地で一生を終えたことになっています。

身の潔白を証明するために自ら命を絶った斎王

紫色の小さな花畑の上に神鏡を持ち寝そべっている稚足姫皇女のイメージイラスト

伝説の時代の斎王 稚足姫皇女(わかたらしひめのひめみこ)

 雄略天皇の皇女で、別名栲幡皇女(たくはたのひめみこ)とも呼ばれています。

 あるとき、湯人(ゆえ)の廬城部連武彦(いおきべのむらじたけひこ)が皇女を妊娠させたと讒言(ざんげん)する者がありました。天皇からの使者に詰問された皇女は「わたしは知らない」と答え、その夜にわかに神鏡を持って失踪してしまいました。

 人々が皇女を探していると、五十鈴川のほとりで虹が蛇のように立ちのぼっていたので、不思議に思ってその辺りを探してみると、神鏡が埋められており、その近くで皇女は自らの命を絶っていました。その遺体をあらためてみても、水のようなものと白い石が認められただけで、妊娠しているようすはなかったということです。

許されぬ恋に解任された斎王

オレンジ色の花をバックに立つ磐隈皇女のイメージイラスト

伝説の時代の斎王 磐隈皇女(いわくまのひめみこ)

 欽明天皇と蘇我大臣稲目宿禰の女、堅塩媛の間に生まれた皇女で、用明天皇の妹であり、推古天皇の同母姉にあたります。

 またの名を夢皇女(ゆめのひめみこ)といわれ、日本書紀には『初め伊勢大神伊勢に侍へ祀る』と記されていますが、古事記には、伊勢に向かったことは記されておらず、伊勢ではなく三輪山の麓で日神を祀っていたとも考えられています。

 伊勢大神を祀っていたのは531〜571年頃と考えられていますが、異母兄弟・茨城皇子(『古事記』では馬木王)に姦されて解任されました。

 時は、斎王制度が定められるより以前の伝承の斎王の時代。神に仕える斎王には恋が許されない、厳しい時代でした。

三代の天皇の時代にわたる斎王

木の下に佇む酢香手姫皇女のイメージイラスト

伝説の時代の斎王 酢香手姫皇女(すかてひめのひめみこ)

 用明天皇皇女で、用明天皇が即位した586年から用明・崇峻・推古の三代の天皇の時代、約37年の長きにわたって斎王の位にあったといわれています。

 推古天皇の30年(622年)、聖徳太子の没した年に自ら斎王の役目を退いて葛城に移り、そこで生涯を終えました。

 『上宮聖徳法王帝説』では、「(次)須加氏古女王」という名前で記されています。

その他斎王

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