斎王紹介その3

歴史の中にさまざまなロマンを紡いだ斎王
悲しくも美しい斎王の物語をご紹介します

斎王の人数、名前の表記、年数等は史料によりさまざまな説があります。
ここでは『斎王物語』(中野イツ著 明和町・明和町教育委員会)の一覧表を元にしています。

祖母・母・娘。三代続いて選ばれた斎王

薄紫色の花柄の衣を纏った朝原内親王のイメージイラスト

奈良時代の斎王 朝原内親王(あさはらないしんのう)

 桓武天皇皇女。第17代斎王・井上内親王を祖母に、第21代斎王・酒人内親王を母に持ち、祖母・母・娘と三世代続いて選ばれた他に例のない斎王です。

 延暦元年(782年)、斎王に卜定されたときの朝原内親王はわずかに3・4歳。延暦3年(784年)には長岡京に遷都が行われましたが、朝原内親王は、平城京にとどまり、平城京から伊勢へと旅立ちました。

 退下は延暦15年(796年)。斎王在任15年、18歳の時で、その理由は定かではありません。退下後は安殿皇太子の妃となり、弘仁8年(814年)39歳で母親に先立ってその生涯を終えています。

『伊勢物語』のモデルとなった斎王

満月の夜に恬子内親王と在原業平が会っているイメージイラスト

平安時代の斎王 恬子内親王(やすこないしんのう)

 清和天皇の異母姉で、12歳で卜定され、14歳で群行、18年間の長期に渡って斎王を勤めたのち、天皇譲位により29歳で退下しました。

 「昔、男ありけり…」で始まる『伊勢物語』の六十九段『狩の使』に登場する《斎宮》のモデルであるとも言われています。 この《斎宮》恬子内親王と、同じく《おとこ》のモデルとされる在原業平との一夜のロマンスが真実である確証はありませんが、昔から物語の形を借りた真実であると信じられてきました。また、2人の間には子供が生まれていたという後日談も伝えられています。

34年間の長きにわたって神に仕えた斎王

小さなピンク色の花が咲く木の奥に立ち花を愛でている柔子内親王のイメージイラスト

平安時代の斎王 柔子内親王(やすこないしんのう)

 宇多天皇の第3皇女で、醍醐天皇の御代に斎王として伊勢の天照大神に仕えました。

 寛平9年に斎王に卜定された時の年齢は不明ですが、退下の年代や没年から推定すると、10歳以前ではないかと思われます。

 柔子内親王は、延長8年(930年)、醍醐天皇の譲位によってその任を解かれるまで、34年の長期にわたって斎王をつとめ、退下後は六条斎宮と呼ばれ、優雅な生活をおくりました。『大和物語』には、郡行時のエピソードが伝えられています。

 政変に巻き込まれ、波乱の生涯をおくることになった斎王もいましたが、柔子内親王は柔和で華やかな人生を送り、天徳3年(959年)、70歳に近い生涯を終えました。

卜定によって恋を引き裂かれた斎王

結ばれなかった藤原敦忠と薄紫色の花に纏われた雅子内親王のイメージイラスト

平安時代の斎王 雅子内親王(まさこないしんのう)

 醍醐天皇の第10皇女に生まれ、後に三十六歌仙にも選ばれた貴公子・藤原敦忠(あつただ)と何度か歌を交わし、逢う約束した矢先に22歳で斎王に選ばれました。この時の卜定(ぼくじょう)は、まるで二人の恋を神が知っていたかのように2回続けて凶と出て3回目で選ばれたということです。

 6年後、母親の死によって28歳で退下しましたが、藤原家の権力者・師輔に求められ、ついに敦忠とは結ばれませんでした。

 二人の交わした激しくも切ない恋の歌は、『敦忠集』などに収められ、その歌からは二人の想いの深さが伝わってくるようです。

『源氏物語』の六条御息所のモデルとなった斎王

太陽の下で赤色の花に囲まれている徽子女王のイメージイラスト

平安時代の斎王 徽子女王(よしこじょおう)

醍醐天皇の第4王子・重明親王の娘として生まれ、8歳で斎王に卜定(ぼくじょう)されました。11年間斎王を勤め、母の急死を機に18歳で退下、その2年後に入内し、叔父にあたる村上天皇と結婚し、斎宮女御(さいくうにょうご)とも呼ばれました。才能豊かだった父親王の血を受け継ぎ、すぐれた和歌を数多く詠んだことから三十六歌仙の一人にも選ばれています。
その後、村上天皇との間に生まれた規子内親王(のりこないしんのう)が27歳で斎王に卜定されると、時の天皇の命令に背いて娘とともに徽再び斎宮へと赴きました。
『源氏物語』に登場する六条御息所のモデルであるとも言われています。

その他斎王

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