斎王ゆかりの地(町内編)

今も残る、斎王ゆかりの史跡や神社
その場所に立てば、遙か時の彼方の物語がかいま見えるかもしれません

木々に囲まれた敷地の入り口に小さな鳥居が立っている写真

竹神社

 明治44年(1911年)旧斎宮村にあった25社の神を合祀し、野々宮が祀られていた現在地(牛葉)が境内となりました。周辺からは平安時代の大規模な塀列や掘立柱建物の跡が発掘され、斎宮の中枢である内院があった場所ではないかといわれています。

周囲を樹木に囲まれ、積み上げた石の土台の上に木材で囲われ中が見えにくい造りになっている竹神社の写真

惇子内親王の墓

 後白河天皇の第五皇女惇子内親王は嘉応二年(1170年)9月、高倉天皇のとき第六十四代斎王として伊勢にこられ、承安二年(1172年)病気のため16才で亡くなり、堀川斎王と呼ばれました。このお方のことを堀川斎宮とも申し上げます。

 お墓は有爾中の共同墓地につづいた小高いところに残っています。

木々に囲まれ小高い山の様に盛り上がった所の手前に惇子内親王の墓と書かれた看板が設置された写真

粟須美神社跡

 弘仁年間(820年ごろ)嵯峨天皇が斎王に大巳貴命(オオアナムチノミコト)を祀り鎮守の神社とするよう命ぜられたので鎮守台ともいいました。天正十一年(1583年)1月10日兵乱の後、里人がこれを産土神として敬いました。

 現在、氏神のあった所に石碑を建て伊勢神宮の遥拝所としています。

樹木が生えている手前左右に石造りの狛犬が設置され中央に小さな祠のある粟須美神社の写真

佐々夫江行宮跡

 天照大神の御霊をお祀りする場所をさがして各地をおまわりになった倭姫命は、伊勢の地に入られてから飯野の高宮に落ちつかれました。4年ののち櫛田川を下って海に出られ、大淀に御船をおとどめになって佐々夫江にお宮をつくり、しばらくこの地におとどまりになりました。「倭姫命世記」という本に書いてある真名鶴が飛んできて八握穂の稲をささげたという言いつたえはこの頃のことで、今から約1700年の昔、第十一代垂仁天皇の御代のことです。

 現在山大淀の西、笹笛橋の近くの田の中に1メートルほどの高さの碑が立っていて「竹佐々夫江旧跡」ときざんであります。

細い木の右隣りに設置された竹佐々夫江旧跡と刻まれた小さな石碑の写真

尾野湊御禊場跡

 業平松の東200メートルのところに「斎王尾野湊御楔場阯」と書いた大きな花崗岩の碑が建てられていますが、尾野湊というのは大淀海岸の古名です。

 斎王は毎年6月と9月と12月には伊勢神宮へ直接お出かけになってお祭を行われることになっていましたが、そのうち9月の神嘗祭(かんなめさい)のときは8月の終わりに大淀の浜でみそぎ(川や海で身を洗い清める)を行いました。

木々に囲まれ中央に設置された縦書きで斎王尾野湊御楔場阯と書かれた石碑をアップで撮影した写真

隆子女王の墓

 醍醐天皇の孫女、隆子女王(たかこじょおう)の墓。隆子女王は第四十三代斎王として伊勢に遣わされたが、天延二年(974年)にわずか3年の在位で病死、この地に葬られた。算所にある墓は宮内庁が管理、清楚なたたずまいをみせています。

小さな鳥居の奥に樹木に覆われた隆子女王の墓を正面から撮影した写真

業平松

その昔斎王が、伊勢へ狩りの使いに来た在原業平(ありわらのなりひら)との決別を惜しみ、歌を詠み交わしたという故事により、大淀にあるこの松を業平松というようになりました。現在の松は三代目で、周囲は業平公園となっています。

木々に囲まれた敷地内に立つ枝が伸びた大きな業平松の写真

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