斎王ゆかりの地(町外編その2)

今も残る、斎王ゆかりの史跡や神社
その場所に立てば、遙か時の彼方の物語がかいま見えるかもしれません

このコーナーでは、『日本書紀』等のほかに、中世の伊勢伝承である『倭姫命世記』等も参考にしています。そのため、歴史的事実である根拠に乏しい内容も含まれています。
文中の年数等は、『倭姫命世記』などの中世の伝承によるものです。

神戸神館神社・城南神社(かんべこうだつじんじゃ・じょうなんじんじゃ/桑名市)

桑名野代宮(くわなののしろのみや)の比定地のひとつ

右側に鳥居より高い石碑が設置されている桑名野代宮の写真

 豊鍬入姫から御杖代の役目を引き継ぎ、伊賀国、近江国、尾張国等を巡った倭姫命は、最後の伊勢国へと至る。この伊勢国で最初に天照大神をお祀りした場所が桑名野代宮である。(桑名野代宮の最古の史料は『皇太神宮儀式帳』)

 桑名野代宮は、現在の三重県多度町の野志里神社(のじりじんじゃ)とされるが、一説では桑名市江場の神戸神館神社であるとも言われ、倭姫命がこの地に休憩所として館を建て神宮が伊勢に定まった後、神領土の神明社として館跡に神館神社が創建されたという伝説が残る。

 また、東海道沿いで、神館神社から約500メートルほどはなれた城南神社にも倭姫命御停座の伝説があり、古来より伊勢神宮の式年遷宮ごとに内宮一の鳥居がおくられて改築する慣例になっているという。各地に残る倭姫命の伝説は、今も生き続けている。

五百野(いおの/津市旧:美里村)

五百野皇女(いおののひめみこ)が没した伝説の地

木々が鬱蒼と生い茂った階段の手前に鳥居が設置されている高宮神社の入り口の写真

 倭姫命の後を継ぎ、天照大神に仕えた五百野皇女(いおののひめみこ)は別名を久須姫命(くすひめのみこと)といい、記録も少なくいくぶん影の薄い斎王である。(別名の久須姫は『日本書紀』には見えず、『斎宮記』や『倭姫命世記』等、後世の史料にのみ記されている)

 彼女が伊勢にいた頃、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征に赴く途中で伊勢神宮に立ち寄り、倭姫命に草薙剣(くさなぎのつるぎ)を手渡されている。日本武尊は、この旅の帰途で病にかかり、現在の亀山市の能褒野(のぼの)で没する。危険な旅に向かう弟を、五百野皇女はどのような思いで見送ったのだろうか。
五百野皇女の退下の時期は不明だが、都へ帰る帰途で病に倒れた皇女が亡くなったと言う伝説が残るのが美里村五百野である。

 この場所は、斎王群行のルートのひとつと言われる伊賀街道沿いにあり、「景行天皇皇女久須姫命之古墳」と刻まれた石碑が立っており、ほど近くの高宮神社には久須姫命が祀られている。古くはここに伊勢神宮の御厨(みくりや)があり、神宮と関係の深い土地でもあった。

加良比乃神社(からひのじんじゃ/津市)

倭姫命が天照大神を祀った阿佐加乃藤方片樋宮(あさかのふじかたのかたひのみや)の比定地

本殿の手前に文字が刻まれた石柱が立っている加良比乃神社の境内の写真
木々に囲まれた参道の手前に鳥居が設置されている加良比乃神社の入り口の写真

 『倭姫命世記』に垂仁天皇の18年から4年間天照大神を祀ったと記される「阿佐加ノ片樋宮」の比定地のひとつとされているのが現在の津市にある加良比乃神社である。

 江戸時代、多くの旅人が伊勢を目指した伊勢街道沿いに立つ「式内加良比乃神社」の碑を目印に参道を行くと、深い木立に囲まれた社殿が現れ、境内には「片樋宮」と刻んだ石柱もたてられている。

 「加良比」は「片樋」のなまったものだと言われ、この神社のある場所の片側が急な斜面になっているため、樋を用いて泉の水を引いたことに由来すると言われている。
このほか「阿佐加ノ片樋宮」の比定地としては、松阪の阿射加(あざか)神社や雲出川ぞいにある久居市の川併(かわい)神社とする説もある。

 ここまで来れば伊勢まではあと少し。

 その道のりを、倭姫命は各地で天照大神を祀りながら旅していったのである。

忘井跡(わすれいあと/松阪市旧:嬉野町・三雲町)

都を想う和歌が残る史跡

松阪市嬉野宮古町

松阪市市場庄町

天永元年(1110年)、第56代斎王・恬子内親王(やすこないしんのう)につき従ってきた女官・斎宮甲斐(かい)が、斎宮へと向かう群行の最後の宿泊地である「一志頓宮」(いちしとんぐう)で詠んだ和歌が残る。

別れゆく
都のかたの 恋しきに
いざむすび見む 忘井のみず
斎宮甲斐 『千載和歌集』(せんざいわかしゅう)

…斎王の群行(ぐんこう)に加わり、京の都に別れていきますが、都の方が恋しくてなりません。「忘井の水(わすれいのみず)」を飲めばきっと都のことを忘れるかもしれません。さあ、「忘井の水」を手で掬って(すくって)飲みましょう・・・・

一見、華やかな群行ではあっても、斎王の胸中には、神に仕えることの晴れがましさよりも、住み慣れた都や親しい人々との別れの悲しさが強かったかもしれない。斎王だけでなく、それに従う女官ともなれば、その想いはいっそう募ったことだろう。

別れの切々たる情をつづったこの和歌が詠まれた「一志頓宮」は、現在の嬉野町宮古であるとも三雲町市場庄近くであるともいわれ、それぞれ石碑や井戸跡が残る。
ひっそりと静まる小さな史跡。しかしそこには斎王にまつわる悲しい記憶が、そっと息づいているのである。

離宮院(りきゅういん/伊勢市旧:小俣町)

神宮へとおもむく斎王の休息の宿

二本の木が立つ左側の参道手前に鳥居が立っている離宮院址の写真

 離宮院址(りきゅういんあと)は、現在の三重県小俣町に存在する。JR宮川駅を下りてすぐの森…ここがかつて斎王が神宮へと向かう途中に立ち寄って宿泊したという場所である。しかも天長元年(824年)には、斎宮が神宮から遠いという理由で離宮院そのものが斎宮となる。しかし、その15年後の大火事により、再び現在の明和町へと斎宮が移されるという経過をたどっている。その後14世紀に斎王群行制度が廃止されるにいたって、離宮院も徐々に衰退していったという。

 離宮院には、現在の役所にあたる「大神宮司」と駅馬を常備した「度会の駅」が併設され、いわば地方における政治・文化・経済の中心として機能した一大官庁群であったことが推察されている。現在は国の史跡指定を受け、院址内には官舎神社と離宮院公園があり、憩いの庭として親しまれている。芝生広場などもあり、シーズンには桜やツツジの鮮やかな彩りが楽しめる。

参考文献

『伊勢の神宮 ヤマトヒメノミコト御巡幸のすべて』大阪府神社庁編・和泉書房
『斎王』津田由伎子著 學生社
『斎宮志』山中智恵子著 大和書房
『続斎宮志』山中智恵子著・砂子屋書房
『斎宮女御徽子女王・歌と生涯』山中智恵子著・大和書房
『伊勢神宮と日本の神々』 朝日新聞社
『朝日百科 日本の歴史 2』 朝日新聞社
『図説資料日本史』 浜島書店
『斎王物語』中野イツ著 明和町・明和町教育委員会
『斎宮歴史博物館総合案内』

関連リンク

この記事に関するお問い合わせ先

斎宮跡・文化観光課 文化財係
〒515-0332 明和町大字馬之上945番地
電話番号:0596-52-7126
ファックス:0596-52-7133

お問い合わせはこちらから